物語日本史 · 54 吉野五十七年(三)

平泉澄 《物語日本史》
後醍醐天皇的皇子 在後醍醐天皇的眾多皇子中,最年長的恐怕是護良親王。之前已經提過,護良親王藏身於藏大般若經的柜子中,登上吉野山,進入十津川,冒著危險與賊軍戰鬥,在中興的時期被任命為征夷大將軍,但好景不長,最終因為足利氏,在鎌倉慘遭殺害。而最年少的是懷良親王。剛才也提到,懷良親王才八歲就被任命為征西將軍,遠赴九州,在筑後川的合戰中也出陣了,馳馬奔騰戰場,討伐賊軍,之後在清澈的矢部川旁的深山中過世。護良親王的弟弟,也就是懷良親王的哥哥有尊良、世良、恆良、成良等各位親王。除此之外,還有義良親王。元弘三年(1333),六歲的義良親王前往陸奧,致力於平定北方,延元元年(1336)元服,被任命為陸奧太守。他比護良親王年長大約兩歲,後來接受後醍醐天皇的讓位,成為後村上天皇。 尊良親王在元弘元年時陪伴後醍醐天皇行幸笠置山。城池淪陷時,親王被賊軍逮捕,被流放到土佐。在出發前往土佐之日,在京都的住處,親王看著插在瓶中的花,作了下面這首和歌: 花は猶 とまるあるじに かたらへよ われこそ旅に たち別るとも (花兒啊,請代我向這宿驛的主人傳話。我要和他道別,踏上旅途了。) 後來,鎌倉幕府滅亡,尊良親王回到京都。然而不久足利氏就謀反了。新田義貞跟隨親王討伐賊軍。延元元年,新田軍以越前的金崎城為據點戰鬥,次年春天,城池淪陷,尊良親王也自盡了。 世良親王被任命為太宰帥,被賦予了極大的期望,然而他早在元德二年九月就過世了,沒能看到元弘、建武年間的合戰。《增鏡》中記載:「聖上哀嘆無比,世人亦覺可惜。」北畠親房是這位親王的監護人,他悲嘆親王的過世,就出家了。 恆良親王在元弘元年(1333)笠直一戰戰敗後,天皇轉移到了隱岐時才八歲。他思念父親,作了下面這首和歌: つくづくと 思ひ暮して いりあひの 鐘をきくにも 君ぞ戀しき (沉陷在思緒中時,卻聽到了遠方的寺院的晚鐘。父皇啊,我想念您。) 《太平記》中寫道,京中的人們都讚賞這首歌。中興之時,後醍醐天皇將恆良親王立為皇太子。延元元年,恆良親王隨新田義貞等人來到越前,次年卻落到了賊子的手中,最終被毒害了。 宗良親王 就這樣,後醍醐天皇的皇子們在遭遇國難後,都執劍奮起,策馬馳騁東西,英勇奮戰。其中足跡最廣,耗費最長年月,而且我們現在能詳細地追尋到其事跡的,是宗良親王。宗良親王剛開始稱尊澄法親王,作為天台座主,統率比叡山。笠置城淪陷時,他被賊軍逮捕,被流放到了贊岐。中興挫敗之後,宗良親王以遠江的井伊城作為據點,攻打東海各國。在後醍醐天皇駕崩,形勢愈加嚴峻時,他還俗後稱宗良親王,得任征夷大將軍,馳騁本州中部的遠江、駿河、甲斐、信濃、越後、越中、美濃、上野、武藏,讓賊軍頭疼不已。 はるばると 朝満つ潮の 湊船 こぎ出づる方は なほ霞みつつ (清晨,潮水滿了港口,船隻劃向了朝霞籠罩的遠方。) 這是延元四年(1339)春天,宗良親王在井伊的住所,隔著浪花遠遠望著濱名橋上的晚霞和對岸的松原時有感而發之作。 一すぢに 思ひ定めぬ 八つ橋の くもでに身をも なげくころかな (不知何去何從,在八橋的分叉口。心亂如麻,一聲嘆息。) 這首和歌是宗良親王在井伊的時候,三河的足助重春經常邀請他到自己的城裡去。而親王卻對遠江和駿河心存留戀,感慨著不知何去何從。 見せばやな 語らば更に 言の葉も 及ばぬ不二の 高嶺なりけり (想讓你看到,這用言語也無法表達的富士山峰。) 北になし 南になして 今日幾日 不二のふもとを めぐりきぬらむ (先從北邊看到富士山,又從南邊望到它。今日已經是第幾天這樣圍著富士山的山麓轉了?) 忘れめや 清見が磯の 浪まくら 関路の月を 面影にして (怎會忘記,在清見的海岸邊入眠,想起了關口路上的明月。) 說到迎接這位有著悲慘命運的親王、盡忠職守的人,在遠江有井伊道政,在三河有足助重春,在駿河有狩野貞長,在信濃有香坂高宗。剛才提到的這首歌,就是宗良親王接受貞長的邀請進入駿河時所作。 かりの宿 かこふばかりの 呉竹を ありし園とや 鶯の鳴く (用吳竹圍起的這暫時的居所,曾經可是園子?可聽見聲聲鶯啼。) いづかたも 山の端近き 柴の戸は 月見る空や すくなかるらむ (從這草庵望去,四周都是山稜線,想遙望明月,也只能看到少許天空吧。) 這首歌是宗良親王接受高宗邀請,來到信濃的大河原時所作。從伊那大島進入小涉川的溪谷,大約過了七古里(二十八公里),左右兩邊的山靠近,擁抱著幽幽的山谷。抬頭一看天空,宛如絲帶一般細長,剛想看看月亮出來沒有,一轉眼又進入山中了。 ふるさとと 聞きし越路の 空をだに なほ浦遠く 帰る雁がね (聽聞這越之國是雁的故鄉,可雁群還要飛離這天空,離開歇腳的海灣,向北遠行。) 上面這首是在越後的寺院住宿時所作的和歌。 年毎に 宿かへて見る 花なれば 後の春とも いかが頼まむ (年年居所不同,如何能期待看到來年春天的櫻花?) 都には 風のつてにも 稀なりし 碪の音を 枕にぞ聞く (在京都時,連風傳來搗衣的聲音都很少,現今出門在外,那聲音近得仿佛在枕邊。) 都にも 時雨やすらむ 越路には 雪こそ冬の はじめなりけれ (冬一到,京都也會下起陣雨。而在這越路,下雪才是冬日的開端。) かぢ枕 夢路は通ふ 舟もなし ねぬ夜の浪の 音ばかりして (劃舟漂泊,夢中亦未見有船隻。不眠之夜,只聞浪濤聲。) いたづらに 行きては帰る 雁はあれど 都の人の ことづても無し (雁群歸去來,京中的人,卻杳無音訊。) 這首是興國三年的時候,在越中的名古浦所作。 後來到了正平七年(1352),宗良親王被封征夷大將軍,他感慨萬千地說道:「久居遠國,如今已忘卻京都的種種,只一心踏上征戰之路。得封征夷將軍之旨令,實在不可思議。作歌一首。」 思ひきや 手もふれざりし 梓弓 おきふし我が身 馴れむものとは (怎會想到,曾經連碰都沒碰過的梓弓,現在卻已習慣朝夕不離身邊。) 在這裡,宗良親王奔波東山、東海兩道,用謀略擊退敵人,保障民生安定。 四方の海の 中にも別きて 靜かなれ 吾が治むべき 浦の浪風 (四方之海,快分開兩邊,平靜下來。這風浪都在我掌控之中。) 宗良親王所在的官軍以新田義宗為主力,聯合各國的有志之士,出擊武藏野。這時,宗良親王為激勵將士作了上面這首歌,非常有名。 君がため 世のため何か 惜しからむ 捨ててかひある 命なりせば (為了聖上,為了世人,又有什麼可惜?只要這性命捨棄得有意義。) 宗良親王的激勵讓武藏守義宗感激不盡。前面已經講過,義宗在小手指原之戰中大破足利氏,還把戰敗逃跑的高氏追擊到隅田川。可惜這戰鬥最終還是失敗了,義宗回到越後,宗良親王也回信濃去了。 諏訪の海や 氷をふみて 渡る世も 神し守らば 危からめや (諏訪湖啊,縱使這世間兇險,如履薄冰,有諏訪明神守護人們,又有什麼危險呢?) 心こそ 猶たちかへれ 年を経る 鄙の長路に もの忘れせで (歲月流逝,勿忘初心。在這遠離京都的路上,千萬不要忘記。) 從正平十四年(1359)到次年,賊軍頻繁地侵犯行在所。後村上天皇從金剛寺轉移到觀心寺,再轉移到住吉,期盼著信濃方面的支援。但是山裡的冬天是很嚴酷的,信濃方面的軍隊不可能很快上來。 木曽路川 嵐に冴えて ゆく浪の とどこほる間を 暫し待たなむ (木曾川的浪花,已被冬日的狂風凍住。在它融化之前,請等待吧。) 稀に待つ 都のつても たえねとや 木曽のみ坂を 雪埋むなり (翹首等待著從京都偶爾傳來的消息,卻杳無音訊,就像這被雪掩埋的木曾坡道。) 天下的情形對官軍非常不利,宗良親王沒有辦法從信州伊那動身。 ありとても あるかひもなき 帚木の 伏屋にのみや 年をへぬらむ (在這掃帚菜環繞的陋室中,活著卻沒有意義,定會虛度光陰。) 我を世に ありやと問はば 信濃なる いなと答へよ 峯の松風 (若是有誰問起我是否還活在這世上,就回答他我在信濃的伊那。不,告訴他我已經離開了人世,刮過山上松樹的風啊。) 終於在文中三年(1374)的冬天,宗良親王從信州出發,前往賀名生的行宮。自延元三年(1338)秋從吉野動身以來,已過了三十六年,後村上天皇也已經駕崩,已到了長慶天皇的時代。宗良親王已經六十三四歲,過去的舊知也很變得很少,他感慨萬千。 山高み 我のみふりて 寂しきは 人もすさめぬ 雪の朝あけ (我長年住在這下雪的高山上,本應習慣寂寞,卻終究沒能習慣,只因為雪晴後無人來訪。) 數年後,宗良親王再次去信州,進入大河原,這次也受了不少苦。 身のゆくへ 慰めかねし 心には 姨捨山の 月も憂かりき (前途未卜,我心煩憂。就算是那賞月聖地姨舍山的明月,也無法慰藉我心。) 《新葉集》 宗良親王七十年的生涯,始終充滿了苦難。然而他卻不屈服於苦難,要讓日本國回到正常的狀態,經歷了各種惡戰與苦鬥。這一切都可以從他的歌集《李花集》,還有他收集吉野君臣們的歌所成的《新葉集》可以看到。《李花集》里收錄的歌有九百二十首,《新葉集》收錄的吉野君臣們的歌有一千四百首。這兩部歌集都傳達了在艱難的年代中的義烈精神和在苦難中也不丟失的風雅情操,傳唱千古。 現在從中選取幾首介紹。 首先是後醍醐天皇的歌。 ここにても 雲井の桜 咲きにけり ただかりそめの 宿とおもふに (在這吉野行宮裡,也會盛開「雲井櫻」 [1] 啊。朕只把這裡當作暫時的落腳之地而已。) うづもるる 身をばなげかず なべて世の くもるぞつらき けふの初雪 (朕的身體被這雪掩埋、淹沒,卻沒什麼好悲嘆的。烏雲籠罩這世間,才讓人痛心,今朝的初雪啊。) 身にかへて 思ふとだにも 知らせばや 民の心の をさめがたきを (朕願以此身去換取一切。至少想讓萬民知道這心情,雖說民心難治。) 接下來是後村上天皇的歌。 高御座 とばりかかげて 橿原の 宮の昔も しるき春かな (挑起高御座 [2] 的帳子,舉行朝拜之儀。在這春日裡,神武天皇的橿原宮的昔日之景浮現在眼前。) 鳥の音に おどろかされて あかつきの ねざめしづかに 世を思ふかな (被雞鳴驚醒,在昏暗寂靜的黎明中,想起世間種種。) 仕ふべき 人や遺ると 山深み 松の戸ざしを 猶ぞ尋ぬる (「是否還有人來侍奉朕?」帶著期待,還詢問那深山中緊閉的松門 [3] 。) 接下來是長慶天皇的歌。 治まらぬ 世の人ごとの しげければ 桜かざして 暮らす日も無し (這世間紛擾不斷,無法回到那往昔,悠閒地把櫻花插在頭上。) あつめては 國の光と なりやせむ わが窓照らす 夜半の螢は (把這深夜照亮我窗台的螢火蟲收集起來,就會成為照亮日本國的光芒吧。) 接下來看一下臣子作的歌,首先是內大臣四條隆俊的。 君がため わが執り來つる 梓弓 もとの都に かへさざらめや (為了聖上,我奮戰至今。難道已經無法奪回舊都了嗎?不,我一定會奪回。) 大納言光有作了下面這首。 思ひきや 三代に仕へし 吉野山 雲井の花に 猶馴れむとは (可曾會想到,侍奉了三代 [4] 聖上,對這吉野山的雲井櫻日漸熟悉。) 下面是北畠親房的孫子,大納言守親的作品。 みちのくの あだちのま弓 とりそめし 其の世に継がぬ 名をなげきつつ (從開始在陸奧征戰以來,自己的名字沒能繼承吾家的名聲,實在令人嘆息。) 下面是源賴武的歌。 引きそめし 心のままに 梓弓 おもひかへさで 年も経にけり (自從心被打動的那一刻起,歲月流逝,我的心意從未改變過。) 這些都是通過《新葉集》流傳至今的歌。 * * * [1] 「雲井」指宮中,「雲井櫻」指紫宸殿南面的「左近櫻」。——譯者注 [2] 高御座(たかみくら),指天皇的玉座,設在太極殿,作為皇位的象徵常出現在和歌中。——譯者注 [3] 松のとざし(まつのとざし),用松木(まつ)做成的門。「松」(まつ)和「待つ」諧音,暗示天皇尋求埋沒在民間的人才。——譯者注 [4] 指後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇。——譯者注